唱歌で有名な「椰子の実」です。
小学校の教室、オルガンの音…。
いろいろ思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか?

島崎藤村『椰子の実』朗読mp3

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子(やし)の実ひとつ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の樹(き)は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕
ひとり身の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新たなり 流離の憂い
海の日の 沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん

解説

唱歌で有名な「椰子の実」です。初出は「新小説」明治33年6月、 「海草」という海に関係した五篇の詩のうちの一篇でした。「落梅集」に再録するとき 独立させました。

「落梅集」には「千曲川旅情の歌」をはじめ、流離・漂泊というテーマが色濃く、この「椰子の実」も流れ着いた椰子の実に託して漂泊の思いを歌っています。

「椰子の実」誕生の契機は、よく知られています。

明治30年の夏、藤村と親交深かった柳田國男は療養のために愛知県渥美半島の突端にある伊良湖崎に滞在していました。

(この頃柳田は東京帝国大学の2年生で、詩人として活躍していました。民族学者として有名になるのは後のことです)

柳田は伊良湖崎の恋路ヶ浜(愛知県田原市)に流れ着いた椰子の実を見て、藤村にそれを話します。

藤村はたいへん興味を覚え、その話を元にした作品を発表するまで他言しないでくれと柳田に念を押します。

これが「椰子の実」誕生の直接の契機となりました。

柳田国男「海上の道」より引用します。↓

今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四、五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。…(中略)

…この話を東京に還ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。

そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ

という章句などは、もとより私の挙動でも感慨でもなかったうえに、海の日の沈むをみれば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが…(略)

以上、柳田国男「海上の道」七章より

また、ドイツのカール・ウェルマンの詩を漢詩に訳した「思郷」の影響があったという説もあります。森鴎外を中心に編集した訳詩集『於母影』に収録。

詩の発表から実に36年の歳月を経た1936年(昭和11年)、大中寅二(1896-1982)により作曲されます。NHKの国民歌謡として全国に放送され東海林太郎の歌でポリドールレコードからレコードが発売され大ヒットとなりました。

ちなみに226事件の年です。

伊良湖崎恋路が浜の東端の日出園地には「椰子の実」博物館・「椰子の実」詩碑があります。

また、小諸駅西側の小諸城址懐古園の藤村記念館前にも「椰子の実」の詩碑があります。

松尾芭蕉は「笈の小文」の旅で伊良湖崎を訪れ、「鷹一つ見付てうれしいらご崎」と詠んでいます。

(意味)湖崎は「万葉集」「山家集」などで「鷹」と共に詠まれており、その古歌にある鷹をまさにこの伊良湖崎で見ることができた、なんと嬉しいことだ。

玉藻(たまも)刈る伊良胡(いらこ)が崎の岩根松(いわねまつ)いくよまでにか年のへぬらむ(千載集)

伊良胡崎に鰹釣り舟並び浮きて西北風の波に浮かびつつぞ寄る(山家集)

巣鷹わたる伊良胡が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな(山家集)

また伊良胡崎からは三島由紀夫の「潮騒」の舞台となった神島が望まれます。

「影をや・なせる」をずっと「影を・やなせる」と勘違いしてました。よく考えるとそんな動詞はないですね。

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